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小倉百人一首-65番相模 の話

小倉山荘という京都のお菓子屋さんから届くメールマガジンはずっと小倉百人一首を紹介しているので楽しみにしているのですが、今回は「相模」。65番です。

恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ

詳しい紹介はこちらから
相模(さがみ)|子供と愉しむ百人一首:百人一首の意味を知ろう

相模に住んだから相模(さがみ)なのです。相撲(すもう)とは違いますw

さてメールマガジン
京都老舗おかき専門店小倉山荘 の
小倉百人一首あ・ら・かるた〔二百三十三〕から引用します。

心ならずも東路(あずまじ)に下って三年も経ったので
由緒あるところを見ておこうと箱根に詣でたとあり、
信心ではなく観光気分で参詣したことがわかります。


時は治安(じあん)三年(1023年)正月。
相模は旅宿でのつれづれに思いつくまま百首をしたため、
「社のしたにうづませ」ました。


寺社へ和歌を奉納するのはめずらしくありません。
しかし相模の場合は、驚くべき展開が待っていました。
その年の四月十五日、権現からの返事だといって
百首の和歌が届けられたのです。



「いかでか見つけゝむ」と相模は訝(いぶか)しんでいますが、
権現からの百首は相模が埋めた百首に対応する内容でした。
たとえば、


若草をこめてしめたる春の野に われより外のすみれつますな

(あなたは)春の野を独占し
若草をわがものとして(=わたしを妻として)いたはず
わたし以外のすみれをお摘みなさいますな


夫公資の浮気を知ったときの歌と考えられます。
これに対する権現の歌はこうでした。


なにか思ふなにをか嘆く 春の野に君より外にすみれつませじ

(あなたは)何を思い何を嘆くのか
春の野にあなた以外のすみれを摘ませたりしませんよ


神の力で浮気はさせないというのでしょう。
相模の歌には悩みや怒りを詠んだものが多かったため、
権現の歌はそれをなぐさめ、なだめる内容になっていました。


その後相模は都にもどることとなり、
権現の百首を届けてくれた僧のもとに
返事の返事となる百首を詠んで送りました。

これも権現の歌に対応する返歌であり、


燃えまさる焼野の野辺のつぼすみれ つむ人たえずありとこそきけ

さかんに燃える焼野の野辺に咲くつぼすみれのような女でも
摘む人は常にいるという話ですわ


権現はなだめたつもりだったのに、相模は堂々と反論しています。
権現の歌は説得力がなかったのでしょうか。


ところで、この合計三百首に及ぶやりとりのうち
権現からの返事という百首は、
ほんとうはだれが詠んだのでしょう。



こんなエピソードがあったとは驚きました。という話ではなく、私が関心を持ったのは権現の応答というスピリチュアルな部分です。
このことがわからないと日本の歴史はやはりわかりません。どんなに学問的にアプローチしようと思っても人間の歴史にはこうした目に見えない世界との関係で歴史が動いてきています。

祈りと応答というテーマも含む気がしています。相模(さがみ)が相撲(すもう)ではないという冗談もまんざら無関係ではないのです。深入りすると変な奴と思われそうですので、ここではやめておきます。

相模の場合はそれが歴史に影響を与えていませんが、例えば道鏡の宇佐のご宣託事件などは歴史を変えてしまったわけです。
↓↓
道鏡 - Wikipedia

もう一つ私が取り上げたわけは「すみれ」にあります。植物から歴史を見るということに興味を持っているのです。

墨入れに似たカタチから「すみれ」になったという説を牧野富太郎さんは紹介していますが、私はどうも違うという気がしているのです。大工さんが使う墨入れがあのカタチになったのは江戸時代のことで、それまでの墨入れは角ばったものでした。

宮廷の女性が礼をする姿から須美礼とする説を私は押したいのです。

さらにスミレの種類が一番おおいのが日本です。ということは原種に近いということでもあります。
↓↓
スミレ - Wikipedia

日本列島の地質学的歴史とスミレの分布は密接に関係していると考えています。氷河期あたりの動きの手がかりになるのではないかと思っています。研究途上ですが…。


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